昭和47年10月18日 月次祭
皆さんお疲れで御座いましょう。毎日毎日連日の事でございますから。お祭り前にへこたれはせんかと言う位に疲れます。私などは見ておるだけで疲れました。皆さんが一生懸命朝からばたばたやっておられるのを見まして、本当に目まぐるしい様な、お祭りを迎えるにあたりましての、心準備が形の上でこの様にして、心が現わされてきております。本当にやはり疲れますきつい。けれども矢張りそれがね、最近言われる根性という事。根性を作るという事は、そう言う様な事から生まれてくると思うですね。
今日も一日朝から御用を頂いて、あそこへ十人余りの方は、夕べから殆ど寝なしのようにして御用を頂いてそして今日また、一生懸命の御用を頂いて、そしてま、今晩は改まって、お月次祭一応帰って又お月次祭に皆さん出てきておられる。今日昼一日教会におったんだし、神様も拝むとはたいげぇ拝んだからと言うようなものではない。そこにね私は根性が鍛えられると思うです。
今日先ほどちょっと、居間に参りましたら、丁度テレビが村田英雄さん一家の人が、どっか東京で招かれて、何か色んな質問などを受けておる所で御座いました。村田英雄さんのお父さんとお母さんと言う方が見えておって、そのお母さんが大変厳しい方でもうそれこそ、ひどいと言った様なもんでは御座いませんでしたと。好きで浪花節になった訳ではないですけれども、弟子達が稽古をしておるのを見て、うろ覚えにやった。
ところがちょっと聞かれたというので、親がそれを本当のものになそうというので、稽古をつけてくれた。お母さんが相方を引かれる三味線の撥でもう、バチバチ頭を叩かれた。もうひどい。けれどもその度にですね、根性が出来たと言ってますよ。今でもね私今日日本一のお母さんと言う様なあれで、何かテレビでやってますよね。だから孫が言っておるのに、日本一とまではいかんけれども、日本で二番目ぐらいのお母さんだろうと言っておる。けれども是だけは日本一と、村田英雄さんが言っておる事はです。
私を鍛えたと言う事においてです。そして私をへこたれさせなかったと言う、教育においては、日本一だと言っております。やはりあんまり鍛えられて、あんまりひどいから、もう挫折しようとする所を、今度は又それをです。またある場合には機嫌をとるような場合もありましょう。場合には叱ってでも、また引っ張って行くようにしてから、自分を挫折させなかったという教育と言うことにおいてはです。私の母は日本一ですと言うて、今日は丁度話しておる、そこだけを見せて頂いた。
今日上野先生がここで前講を努めておりました。この人も、中々な根性の人です。先日から、私共が御本部参拝で、留守番の責任を持って、留守番させていただいておる時に、風邪を引いて、大変熱があって身体は寒気がして、どうにも出来ないと言う様な時にです。そこんところを、まぁ辛抱し抜かせて頂いて、それを一山、二山越させて頂きよったら、熱も下がり気分も良くなり、寒気も良くなったという話をしておりました。私はそれが根性を鍛えて行くのです。
今日は頭の痛かけんご無礼しよう。今日はぞごぞごするけん早う休もう。これではねいけないというのじゃないですよ。それがいけないと言うことになると、金光様の信心ちゃ、先生ちゃ、無理ばっかり言いなさると言う様な事になりますから。自分自身がねそこん所は、通り抜けれるもんだと思うんです。ヒントぐらい与えますよね、ちょっと。今日も、夕方でした。西岡さんがここにお届けに出てまいりましてから、娘さんやら孫さんやら、また二十一日の日はどっか娘たちが旅行に行くから。
ここの御大祭を終わってからでは遅いから、今夜からでもやらせて貰うて、明日の前夜祭に間に合うように、まぁ帰らせて頂たいと言う意味のお届けをしておりました。それで、私が申しました。「西岡さんあんたここにゃ何のために帰ってきておるか」ち言うた。記念祭があるから、それこそあちらでも外せない所を、ご無理を言うていうなら一週間も、お暇を頂いて帰ってきておるとじゃないか。
明日のただ前夜祭に間に合や良か、お祭りの間に合や良か。別に祭員を仕えるわけでもないのに。いわゆる御大祭前の御用をさせて頂きたいというので、お許しを頂いて帰って来とるとじゃないか。娘に言うときなさい。例えば電話でもかかってきたら、「いやぁ、出来んばい」と、「大祭が終わらなきゃ出来んよ」と、あんたどんが居らんなら居らんでも良い。「そういう問題は、お父さんがお願いをしとく、おかげになりるよ」と。「どうでも会いたいんなら、あんたが出ておいで」と。
そらお孫さんも居られるから、お孫さんの顔も早う見たかろう。けれどもです私は今日、これは西岡さんに信心を本当に体得させて頂きたいなら、そこからしか生まれてこない。信者ですら例えば商売投げ打ってから、やってるじゃないの。お道の教師でも志させて頂こうという者がようやく帰ったは、御用も出来んでおってから。そして明日の前夜祭に間に合うように帰ってくるてんなんてんち、よかこつが良かろう筈がないじゃないの。御大祭でも終わったら、一週間なら一週間、頂いてきとるから。
そら四日でん五日でんそら構わんだろう。こと神様と信心を体得したい分かりたいというなら、そこを通らにゃいけんと思うたから。今日私は西岡さんに始めて、何時も帰らせてもらうとか、まぁいうなら孫の顔見にも行くと、そらぁそうでもあろうけれどもです。いつでもそれはさぁ行ってお出でなさいと言うておりましたけれども、今日はそのような風に申しましたが、皆さんどうでしょうか。皆さんのほうが、ここんにきは出来ておりますですね。今晩集まっておられるくらいの方ならば、それはたしか西岡さんよりか、うんと出来とるです。
久富繁雄さんじゃないけれども、「俺がここに御用に来ておる時にゃ電話かくるな」ち。御用の邪魔になると言うくらいなです。それが根性なんです。そこからね私は本当の力が。例えば、浪花節ですらがそうなんです。ましてや信心を体得させて頂こう。本当にお徳を受けさせて頂こう。あの世にも持って行き、この世にも残しておけるほどしの素晴らしいものを頂こうかという事である。ましてや人が助かる事の為に、一生を金光大神に捧げ、天地金乃神様に、その事を願わせて頂いておるという。
道の教師を志しておる西岡さんが、そういう事で、出来ようはずがないじゃないか。それこそ、上野先生じゃないけれども、学院に入学中に両親が亡くなられた、弟さんが亡くなられた。一番初めはお母さんでしたでしょうかね。その時には帰ってきましたけれども、お父さんが亡くなられた時にはです。もうみんなから帰れと言われたけれども、私が帰ったからといって、どういう事ではないからと言うて、帰らなかった。私なら私もそうするだろうと思うです。これがね根性を鍛えて行くという信心なんです。
私はその事を今日は根性という事を、しきりに思わせて頂いておりましたら、上野先生もやはり、その自分の根性で先日からの頭が痛かったですね。頭が痛いからさぁノーシン。風邪引いたから風邪薬と言った様な事でです。神様を本当に生きた神様を頂こうと言う事。この身体を作って下さったという神様を頂いておりながら、この身体を神様に修繕していただくというくらいなです。私は自信を持たせて頂いて、初めて健康の徳を受けることが出来ると思うです。ですからその事を神様にその根性という事。
そら何の道だって同じこと。ひと根性持っておらなければ出来るこっじゃない。もう師匠が怒ったけんでもう止めよう。もうこげなつらいならば、止めようと言う様な事で、一つの事でも体得し覚えると言う事は出来ません。特にそれが名人達人と言われるほどしの人ならばです。必ずそう言う所を、それこそ嫌と言うほど、通り抜けさせて頂いて、初めて一つのことでも体得出来、人からは言うならば褒められるくらいな所までが出来れるようになるのです。こらまぁだから信心において親であります。
そんなことを私思わせて頂いておりましたら、御神前で只今頂きました事がね。紫蘇の実をたくさん頂いた。紫蘇葉というのがあるでしょう梅の。この根性をね鍛えとかなければです、紫蘇という事は大変に難しいという事。もういうなら死ぬか生きるかと言うならばね、もう死相が出るほどしのことだという事。死相が現れるというのは死ぬるという事。そういう時に直面した時にですね。安心のおかげを頂かせて貰えると言う程しのおかげを頂いたら死ぬる病人も助かると言う様なおかげが受けられるという事。
もう寿命が終えとるというようなであってもです。私共が神様に例えば幹三郎の時が、紫蘇のお知らせを頂いたですね奥城で。だから言うならもう難しかという事。けれども私がそこに頂いておる、安心の心というものが、幹三郎を私のいうならば安心が、全快のおかげになったという事です。だからそういうぎりぎりの時にです、おかげの頂けれる信心を身に付けて行きたいというならです。この根性と言うものを、しっかり鍛えておかなければならないということを頂いた。
浪花節を一つ一人前になるでもです。それこそ血の出るような修行の中から、叩かれれば叩かれるほど元気が出たとこう言う。それはそういう名人なら名人になるというだけでしょう。ところが信心はそうじゃないですね。私共が信心の根性を愈々鍛えた上にも鍛えさせて頂いて。上野先生じゃないですけれどもです。ひとたび身体を神様にお供えさせて頂いたが最後、それは親が死んだって動かないと言う位な、私は信心がです。しかも繰り返し出来なければ、本当の神様を把握する事は出来ません。
ちょいと娘が電話架けてきましたけんで、ちょいとそん位なこっでですね、そりゃなぁにもない時ならいざ知らずです。けれどもいうならば記念祭なら記念祭の御用のために帰らせていただいておるという時に、言うなら娘から電話がかかってきた。んにゃ今日は出来んよと頭から言うてよか。今日は私は何人かの人にです、大祭の日が難しいですからと言うから、申しました。その日はじゃ病気しなさいと私が申しました。
日頃教えを頂いておりますから、はぁ親先生そうですなと言うて、その日は病気欠勤することにしますと言うて、何人かの人をお取次ぎさせて貰った。五年に一遍しかないという御大祭を頂く。それこそ後から後悔したって知らんよと。五年祭の記念祭は、こうだったという事を、信心を続けて行こうと思うならば、病気欠勤ぐらいは病気になれという事じゃない。それこそ病気と言うて、嘘を言うてでも良いから休ませて頂いて、神様のほうへ、心を向けるくらいな信心からしか、根性は生まれてこない。
ですからここはね話して言うて聞かせるという事じゃない。自分自身がそういう気にならなければいけないという事です。でないと合楽の先生は、無理なこつばっかり言わっしゃるという事になりますからね。ですから銘々のところで、そういう信心が出来るようにならなければなりません。実はこうやって娘から電話がかかって参りましたけれども、御大祭が済んでから、しかもそれが旅行なら旅行に行くのならば、また会わんでも、あんたがお願いせんならん事は。
お父さんがお願いをしとくよと、言えれるくらいな信心は、一つ身に付けて行きたいと思います。それはどういう訳か、それこそ死相が現れるという様な時であっても、もう愈々難しかいや愈々医者がもう、見放したという時であってもです。そう云う言うならば、信心の根性というか。そこから生まれて来る所の、信心の度胸と言う様なものがです、いうならば手の平を返すようなとか言う、所謂助からんものでも助かる程しのおかげの頂けれるというのは、そういう信心からしか生まれては参りません。
合楽の信心はねどこまでも、私自身がそれでおかげを頂いてきておりますから。そこを稽古する。ためにはですやはり皆さん、根性がなからなければ出来ません。そこから度胸が生まれてくる。お繰り合わせを頂いて、力を頂かなければ出来ません。皆さんが本当に、毎日のことですから、疲れに疲れておられましょう。けれども疲れたまま大祭に突入したんでは出来ません。ここに一段と一つ根性を絞らせて頂いて、根性で御大祭をお迎えさせて頂こう。そこから向こうにです。
夕べは寝とらんけれども今日は一つも眠くないと言った様な体験も生まれてくるだろう。成程神様がこの身体は自由自在になさるんだと言う様なおかげを頂く為にはです。一つ普通では通り越せない所を通り越させて貰わなければならん。普通ならもう寝たい所。普通ならばとても御用は出来ない所をです、神様にお縋りして辛抱し抜かせて頂くという所にです。私は本当の信心の世界というものは、開けてくると思うのです。そこん所を私は金光様のご信心は、常識的な信心からは決して良いものは生まれてこない。
非常識と思われるくらいに、いうならば人はですそれを非常識だと言うて、笑うかも知れませんけれども、それを私は超常識だと言うております。だからこそ超が付く様な助かる筈がないものが助かる程しのおかげになってくるのですから。ここん所の根性を一つ、鍛えさせて頂く、こよないチャンスではないだろうか。記念祭を迎える毎日毎日、もうそれこそ連日連夜、御用に没頭しておられる。そういう事の中から信心の根性を、しっかり身に付けて頂きたいと思います。
どうぞ。